去りゆく者
小倉隆史が引退するのだそうだ。

思えばこの2年内外で、ずいぶんと多くの思い入れがある選手がJから去った。個人的な思い入れの大きさとしては、石塚啓次が今でもその筆頭であり、未だに彼がいないJリーグをひどく寂しく思うこともある。そして小倉も、あるいは前園や松波らも、同年代である僕としては、強く意識する存在であったといえる。
小島伸幸や薩川といったベテランたちも、あるいは若くして引退を選ぶ者たちも、サッカーにかけた情熱と、その熱に「当てられた」人たちが支持してこそ、彼らの輝きも増す、と思う。Jという舞台を現役中に満喫できただけ、彼らはそれ以前の世代よりも幸福なのだろうかと、そう捉えることもできる。

今のJには、確かに良い選手が増えた。この十数年でJクラブは増え、裾野は広がり、戦術は整備され、制度もクラブの設備も給与を含めた様々な環境も、プロを育てる状況としてはより素晴らしいものになった。確実な前進ではある。
にも関わらず、拭いきれない物足りなさは募る。
印象論で断じるのは余り好きではないのだが、確実に、「夢」を見させることのできる選手は減った。
いや、これは私が年齢を重ねて偏屈になり、若い選手への正当な評価が出来ず、ややもすると見くびっているせいなのかも知れないが、しかし、と思う。
相対的な評価の変化?評価基準の向上?あるいは、そうかも知れない。

ただ、Jリーグ全体として、パイが増えた分、「濃度」は薄まった気がする。より言えば、均質化の行き着く果てが、サッカーそのものが持つ奥行きや豊かさを奪ってしまうのではないか、という怯えがある。「リーグ」や「代表」ありきの構造それ自体にケチをつけようとは思わないのだが、すべてのベクトルがそこに集約された結果として、メジャー化と平行できるほどには人材の供給がなされず、にも関わらず、受け皿の広まりは進んでいき、一見するとチャンスは広まっているにも関わらず、しかしそれは「同じような人材が大量に集められた」という状況につながっているだけなのではないか、と。つまり「良い選手」のカテゴライズ化が浸透しすぎた結果、「ダメなところがある選手」は、そのわずかな、しかし優れた長所を信じる者達にとっても、批判の先行を良しとし、「直せば良くなる」という安易さにつながってしまうような。
地方トレセンやクラブのセレクションがどうこうというより、サッカーというスポーツの日本におけるメジャー化の進行によって、結果としてそれまで「マイナースポーツ」の枠内で外圧を受けずに育まれていた異能は、メジャーの前段階で排除されつつあるのではないか、と。誤解を恐れずに言えば、不良がサッカーをやらなくなった、とも言えるが。
そしてそもそも、日本にはまだ、そういう異才を許容できるだけの、サッカーとしての文化的広がりを求める事は無理だと思うのだが、しかし日本という国では、情報を集める環境は発達しているし、皆が多くの情報に触れ、理解し、知識は充実する。そういう歪みが、どこか狭隘な「サッカーはこうあるべき」論につながらないか、という不安だ。

トップ選手の海外流出が、「薄さ」に拍車をかけはしまいかという懸念も付き纏う。小野伸二の再来はレッズとJリーグには福音であろうが、W杯後、彼が再び海外に移籍したとき、レッズサポーター以外の人間にとって、何が残るのだろうか、という不安もある。その不安に根拠や具体性があるわけではないのだが。

小倉は日本代表として、わずか5試合、1得点を挙げたに過ぎないプレイヤーである。しかし僕は彼の名前とプレーを生涯忘れることはないだろう。あのフランス戦のゴールを覚えている人にとっては、彼はいまだに特別な存在であろうか。

どういうサッカーが良いサッカーか、どういうプレイヤーが良いプレイヤーか、それは人によって様々に論があるだろう。
ただ、結局のところ、サッカーはプレイヤーの個性に帰結すると僕は考える。ここで言う個性とは、髪型やルックスやプレースタイルではなく、プレーそのもの、一瞬であり、二度はなく、刹那的で、それゆえに芸術的価値のあるもの。
「美しい」と他人に思わせるプレイの価値は、時代を超えて不変だ。少なくとも僕はそう信じる。
挙げた得点の数より、日本代表のキャップ数より、まして稼いだ金額よりも、目を閉じ、まぶたの裏に残像として現れるようなプレーを残せただけで、僕にとってサッカーを広げてくれる存在になる。一瞬の、ただ一度のプレーだけで、僕は次の試合に期待することができる。
少なくともそう思わなければ、Jの数多い退屈な試合に金を払おうとは、毛頭思わない。

しかし僕は、去りゆく者を追うことはできない。時代は流れる。3月にはシーズンが始まる。
「夢」を見させてくれる若者の台頭を待つ。
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by eixeix | 2006-02-11 02:28 | サッカーとか。
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